『造物主の選択』
ジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の選択(The Immortality Option)』読了。
前作、『造物主の掟』の続編であり、土星の衛星タイタンで遭遇した地球の中世ヨーロッパ(ルネッサンス期のイタリア?)そっくりの文明を営み、自我を持ち自己増殖する機械生命体(タロイド)の起源と彼らに迫る危機に対し、インチキ心霊術師ザンベンドルフと彼のチームが再び立ち上がるといったお話。
相変わらずホーガンの楽観的な理性信仰と勧善懲悪な役振りいうスタンスには変わりはないものの、『星を継ぐ者』にはじまる『巨人たちの星』四部作シリーズに比べればそれも違和感に苛まれない程度には薄らいだ感じだろうか。
「理性>信仰・宗教」というホーガンの構図は普遍ながら、タロイドの「宗教と封建制の世界」にしろボリジャンの「マキャベリズムの世界」にしろこれらは人間社会が経験し内包している側面であり、それらの側面を人間社会の側(無理難題を仰る出資者や頭の固い科学者たち)にも同様に描いてみせることで、『巨人たちの星』四部作に見られた「内部(地球人)=正義VS外部(ジュブレン人)=悪」という目も覆いたくなる排他主義的構図に比べ良心的な配慮が見られるからだろう。とは言ったものの、元ハイデゲリアン
か
らすれば、近代の理性に基づく科学的思考も中世のカトリック教会の信仰もその源泉は基を一つにしているのだから、そもそも「理性VS宗教」という構図はあまりに短絡的すぎるし、ウェーバーにしても脱魔術化の下近代化を推し進めたのはプロテスタンティズム倫理だったわけで…
まぁ、理性を宗教や信仰より高位に置いた態度でタロイドに接する以上、果たして宇宙時代の彼ら地球人が中世さながらの社会を営む個のタロイドたちを尊重しているのかどうかは怪しいもので、遅れた文化(タイタン)を進歩した文化(地球)を教育し保護するといった姿勢が垣間見え(ミルの『自由論』の「判断力のある大人について」のくだりに似通う)、「誤った干渉の危険」は考慮されていないのではないだろうか……だとすればタイタンを植民化しようとしてた地球のお偉方と大差ないようにも思われる。
……と違和感を感じ突っ込みは尽きないが、無闇に倫理などを問うのもエンターテイメント小説に対し野暮というもので、その楽天性こそがホーガンの魅力と考えた方が楽しめる。
古典的ダーウィニズムに基づいた突然変異と自然淘汰が、まさにひょんなことから機械(人工知能)にも起こりかつ生殖まで始めてしまうなんて発想はそのたまものだろうし、でなければあの秀逸なプロローグの描写も生まれてこなかったわけだ。
それに、未来の地球が「電子共産制」であるなんて素敵なアイデアも生まれてこないに違いない。
何よりこのシリーズの最大の魅力は、コミカルかつユニークなタロイドたちの振る舞い―彼らには非常に申し訳ないと思いつつも、タロイドのサーグ“ガリレオ”とグルアーク“モーゼ”の兄弟に降りかかる受難劇の域の災難をどこか滑稽に感じ、つい更なる彼らの不幸を願ってしまう
―と、ザンベンドルフが時折見せるシニカルな発言、および彼に手玉に取られる科学者達が繰り広げるなんともエスプリに溢れた情景だろう。
例えば、前作でザンベンドルフと認知心理学者兼奇術師マッシーが大衆について繰り広げた論争は、ミルの「豚とソクラテスの論法」(当然ザンベンドルフは豚を捕りマッシーはソクラテスをとった)を思い起こさせ、その術中に迷い込んでいくあたりは大変面白かった。
また、作中後半で大活躍するボリジャンの人工知能ジーニアス5は、S.A.C.のタチコマと重なりその勇猛さと知的好奇心によって僕の心を鷲掴みにした。
インチキ心霊術師(つまり確信犯)を演じるものの実は理性への傾倒に溢れたザンベンドルフが放つ、
「真理を追究する科学者にはメダルしか贈らず、いかさま師には富と栄誉を惜しまない社会に嫌気がさして、それなら世間が望むものを与えてやろうとこの商売を始めた」
「…馬鹿者を愚かさから守ってやっても、彼らを賢くすることにはならないんだよ……ぼくが食えなくなったら、それはいくらか人間が利口になったってことさ」
といった台詞はなんとも世知辛く心当たりに溢れ苦笑してしまう。
いかさま師より研究者の方が遙かに博奕な稼業になっているあたりリアル過ぎて笑えないが……(;´Д`A ```
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